業界別レポート
化学・素材メーカーの新規事業の進め方 ── どの堀に張り、どこを避けるか
起案者が今日から着手できる「堀に接続する1枚」(連載・全6回/第6回)
発行: アーキタイプ株式会社 / 2026年8月
シリーズ: 素材・化学 新規事業の地図(第6回/全6回)
連載もいよいよ最終回です。ここまで見てきた利益地図(第1回)・寿命分析(第2回)・6社の事例(第4回)・収益モデル変換(第5回)は、既存事業の棚卸しのためだけのものではありません。
これから新規事業を起案する担当者にとっての「地図」でもあります。 「どの領域へ多角化すべきか」という問いに、本連載の帰納として、問うべきは「方向」ではなく、「どの堀の機構に、新たに張れるか」と答えます。
本記事は、化学・素材メーカーで新規事業を起案する立場の方に向けて、避けるべき領域・狙うべき堀・今日から着手できる一歩を、順に示します。
避けるべき二つの領域
第一に、⑤汎用石化・基礎化学へ新規に参入してはなりません。ここは原料ポジションで勝負が決まる領域で(第3回)、優位のない立地から入れば、市況の谷で最初に出血します。堀を築く場所ではありません。
第二に、意外に思われるかもしれませんが、「機能性スペシャリティへ移れ」という号令が全員を向かわせる①擦り合わせ素材は、最も混雑した激戦地です。 利益プールの31%を占める最大級の機構ですが、同時に最も汎用化が速く、中国の追い上げに晒される唯一の機構でもあります(第2回)。
全社が同じ①へ殺到するなかで、後発が新たに堀を築くのは最も難しい。①へ張るなら、汎用化の時計を止め続ける仕組みとセットでなければ、数年で価格勝負に呑まれます。
狙うべき「見落とされた堀」
先行レポートが視界の外に置いてきたのは、①擦り合わせに匹敵する大きさの堀でした。
②規制障壁(利益プール16%)
登録・認可・薬事・治験データが参入障壁になる領域です。最も長寿命の堀であり(農薬は谷でも利益率28→30%)、新規事業としては登録ごと買うM&Aで時間を買えます。ゼロから登録を積むのではなく、登録と顧客接点を持つ事業を丸ごと獲得する道があります。
③景気非連動・ブランド・内需(利益プール29%・①と拮抗)
産業ガス・住宅・塗料・建材のように、需要が景気に連動せず、地産地消・ブランド・サービス網で守られる領域です。堀は最も長寿命で、中国の輸入圧も弱い。入り方は、内需の顧客接点をおさえる地域密着M&Aと、素材にサービスを束ねる川下移動です。
継続課金化という白いスペース
コア60社に真の転換例が一つもなかった、素材産業に残る空白地帯です(第5回)。既存の大手すら踏み込めておらず、後発でも先行しうる数少ない領域です。自社の製品が顧客の運用データにどれだけ接続できるかが、分かれ目になります。
新規事業とは、多角化の「方向」を当てるゲームではありません。見落とされた堀(②③・白いスペース)を選び、そこへ新たに入る経路(M&A・共創・継続課金)を、掘り直しの仕組みに載せられるかというゲームです。
元の起案を堀に接続する起案者の一歩
ここまでの整理は、経営企画や取締役会を動かす前に、起案者が一人で、今日から着手できます。全社の棚卸しを待つ必要はありません。いま構想している新規事業を1件選び、次の三つを埋めるだけです。
1. どの堀に築くのか:この起案は、①擦り合わせ/②規制/③景気非連動・内需/④規模寡占 のどの機構の堀を築こうとしているか。⑤汎用石化や「機構が未定」なら、まだ堀としては不十分
2. 接続アセットは自社にあるか:狙う堀の参入アセット(②なら登録・認可、③なら内需の顧客接点・サービス網、①なら擦り合わせのR&D)を、自社は既に持っているか。持っていれば、それが最短の勝ち筋になる
3. 接続アセットが無ければ、どの経路で獲得するか:接続アセットを持っていなければ、M&A(登録ごと買う)/共創・CVC/アクセラレーター のどれで「接続点」を得るか
取締役会の合意も、全社のセグメントデータも要りません。自分の起案が「どの堀に、どう接続するか」を言語化するだけで、次の社内提案の質が変わります。埋まらない欄があれば、それが自分の起案の弱点であり、次に潰しにいくべき論点です。
全社へ広げる三つのフェーズ
起案者の事業案を経営の意思決定へ接続していくと、全社の取り組みは次の三つのフェーズになります。
フェーズ①|棚卸し(1〜2か月)
自社の全事業を5機構に振り分け、「率×規模=利益額」で並べ、自社版の「利益地図」を作ります。利益率が高くても規模がなければ全社を支えません。社外コンサルを介さず、社内のデータだけで着手できる第一歩です。
フェーズ②|撤退と再配置の設計(3〜6か月)
赤字事業の出口を設計します。重要なのは、撤退を「率」ではなく「赤字額」で優先順位づけすることです。そして撤退だけを先行させず、撤退で生まれる資源をどの機構の堀へ振り向けるかを同時に決めます。住友化学が偏光板を譲渡するのと同じリリースで「OLED・車載へシフトする」と明言したように、出口と入口はセットで描きます。
フェーズ③|掘り直しの仕組み化(6か月〜)
①のように汎用化の速い機構に賭けるなら、堀を一度掘って終わりにはできません。撤退を「失敗」ではなく「資源の解放」として評価する基準を含め、掘り直し続ける「役割・組織・評価」を制度として整えます。本調査の6軸スコアリングで最も企業間の差がついたのが、この撤退ルールでした。
分析で終わらせないために
この三つのフェーズのうち、フェーズ①(棚卸し)は社内のデータだけで着手できます。ですがフェーズ②(撤退と再配置)とフェーズ③(掘り直しの仕組み化)は、業界・地域・時間軸を横断する観察と、出口設計の実行力を要します。
全6回の連載は、素材・化学の利益構造を「5つの堀とその寿命」という一枚の地図に描き直す試みでした。この地図が、自社の次の一手を考える出発点になれば幸いです。
アーキタイプは、報告書を納品して終わりにせず、撤退の出口設計(ベストオーナー探索・カーブアウト・JV設立)から、新しい機構への参入まで、起案者と一緒に手を動かして伴走します。
本連載「素材・化学 新規事業の地図」(全6回)は、これで完結です。
連載の元になった業界レポート「素材・化学 新規事業・多角化戦略 実態調査」(全60ページ超)を公開しています。60社の利益地図、5つの堀の機構と寿命、先駆企業6社の事例、20年の新規事業データ、そして自社診断のためのリトマス試験紙までを収録しています。
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